2012年2月16日木曜日

【橋】 三条大橋の擬宝珠
~商店前に置かれた謎の移築物件~

三条大橋

京都市の北山(あこがれの北山)に住んでいる僕は、職場まで南のほうへ約15kmの道のりを1時間ほどかけて自転車で走っています。そこそこの距離をのんびりと自転車通勤です。

北山から南へと向かうルート選択を楽しみとしていまして、最近は南北の通りでいえば新町通を基本にしたビバ自転車通勤の日々となっています。

新町通は、平安時代の「町小路」からずっと中世を経て近世に至るまで、京都の南北メインストリートだっただけあって、見どころの多いまちなみが今もおもしろいです。ちなみに、僕らが日本中のあちこちで普段使っている「~町」という地名表記は、新町通の元の名称である「町小路」がそもそもの元祖だったりもします。京都はおろか、日本の歴史上においても重要な通りが新町通なわけです。

そんなビバ新町通な日々のなかで、注目の物件を新町通二条上ルにて発見しました。商店前に置かれた橋擬宝珠です。

三条大橋
■ 商店前に置かれた擬宝珠!
いかにも注目を誘う物件じゃありませんか。
Watch me!! な視線を感じます。

三条大橋
■ 擬宝珠のアップ。
擬宝珠は橋の石柱とセットで置かれています。
近くに寄ってみましょう。

三条大橋
■ 擬宝珠に刻まれた銘文。
擬宝珠は腐食が進んでいて、石製のようにざらざらとした触感でした。そして表面にはなにやら銘文が刻まれています。さらに近寄ってみましょう。

三条大橋
■ 擬宝珠銘文の上段。
三条大橋
■ 擬宝珠銘文の下段。
擬宝珠に刻まれた銘文がはっきり見えますね。

銘の文頭には「洛陽三條」の字が判読できます。銘文からすると、どうやら三条大橋に関係した擬宝珠であるようです。漢文体で刻まれた銘文を転記。
洛陽三條 之橋至後
代化度徃 還人盤石
之礎入地 五尋切石
之柱六十 三本蓋於
日域石柱 橋濫觴乎
天正十八年庚寅 正月 日
豊臣初之 御代奉
増田右衛門尉長盛造之
これは完全に、鴨川にかかる三条大橋の銘文ですね。天正18年(1590年)に、豊臣秀吉が増田長盛を奉行として石製の橋として架けた三条大橋、まさにその擬宝珠が商店の前に置かれていたわけです。そりゃWatch me!!な視線も感じるはずでした。

また判読の補足として、擬宝珠の表面が横方向の凸帯で上下に仕切られていますが、銘文は凸帯で区切って横方向に読むのではなく、凸帯を越えてそのまま縦方向に読み進めるのが正解であるようです。はじめは凸帯で文を区切るのかと思って、意味が取れずに難儀しました。

さらにこの銘文を書き下してみましょう。
洛陽三条の橋は後代に至るも往還の人を化度す。
盤石の礎は地に入ること五尋、切石の柱は六十三本。
蓋し日域に於いて石柱橋の濫觴か。
天正十八年庚寅正月日
豊臣、初の御代に奉る。
増田右衛門尉長盛これを造る。
おおよその意味としてはこんな感じでしょうか。
京都左京の三条橋は、後の時代になっても行き交う人の助けとなるものです(「化度」とは衆生を教え導き救うという意味)。すごくしっかりした基礎部分は地下で五尋(約9.1m)の深さまで達していて、切石でつくった橋柱は63本です。いやあ日本国では石柱を備えた橋の初っ端じゃないかと。天正18年(1590年)の正月に、豊臣氏が初めてこの世に贈るものであります。増田右衛門尉長盛がこれを造りましたよ!
いい文章じゃありませんか(もちろん原文のことです)。率直に名文と感じました。日本発の石柱(しかも63本も)で支えられた大きな橋、行き交う人にとって必ずや恩恵となる三条大橋がこの世に姿を現した感動、そしてそれを見事つくりあげた人々の誇らしさ、そんなプロジェクトXを短い文章で端的に表現しているような。クライアントの豊臣秀吉、ご来賓の後陽成天皇、以下お歴々がテープカットする脇で、現場責任者の増田長盛が感涙にむせぶ様子が眼に浮かびます。よかったね増田さん。よくやったと思うよ。

三条大橋は擬宝珠の銘文に謳われたように、後代に至るまで京都のモニュメント的な存在として脚光を浴びました。よかったね増田さん(もう一回)。

■ 都名所図会の三条大橋。
江戸時代後期(1780年)に刊行されて日本中で大ベストセラーになった『都名所図会』にも、三条大橋は大々的にフィーチャーされました。『都名所図会』は記事のなかで、三条大橋をこんなふうに紹介しています。
三条橋は東国より平安城に至る喉口なり、貴賎の行人常に多くして、皇州の繁花は此橋上に見えたり、欄干には紫銅の擬宝珠十八本ありて、悉銘を刻。
三条大橋図絵画像

都名所図会 巻之一  平安城再刻 ...

「皇州の繁花は此橋上に見えたり」ってとてもいい表現ですね。日本史上まれに見る繁栄を謳歌した江戸時代、その繁栄すべてが三条大橋に縮図となって表れていた様子を描いています。ビバ三条大橋。

いっぽう、ここでちょっと謎なのが、どんな経緯や来歴でこの三条大橋の擬宝珠が、位置を離れた新町通二条上ルの商店前に置かれるようなったのか。

天正年間に、日本発の石柱橋として架けられた三条大橋の擬宝珠です。もちろん立派な文化財ですし、京都の歴史上に燦然と輝くモニュメントでもあります。当然、なんらかの特別な物語が、この擬宝珠を現地点に移築する際にあったはず。きっとあったはず。

ここで近年の三条大橋について、参考となるリンク記事が。
京都クルーズ・ブログ : 三条大橋マニアックツアー(1) ~擬宝珠はいくつ?

大きな変化としてあるのが、昭和四十八年~九年にかけて行われた欄干の取り替え工事である。当時はヘタに体重を掛けたりすると、そのまま鴨川へ落っこちてしまうんじゃないかと危ぶまれるほどの状況になっていたらし ...

どうやら1970年代はじめ(73~74年)に、三条大橋の欄干の取り替え工事が行われたようです。もしかしたらこの工事の際に、ゆえあって今の場所に移築されたんじゃないか。その際、移築をリクエストした方は礼を尽くして願い受けたと。想像をたくましくするところですが、このあたりの物語解明は今後の宿題としたいですね。

また、この三条大橋の擬宝珠は石柱の上に据え付けられていますが、この石柱に穿たれた穴には部材を挿入した痕跡も見て取れました。

三条大橋
■ 石柱の穴。部材が挿し込まれたような跡。
三条大橋の擬宝珠のうち、すべてが石柱とセットだったわけではないと思います。おそらく橋上の擬宝珠の多くは、木製の柱の上に据え付けられていたのではないかと(あまり根拠のない想像)。とするならば、今回の擬宝珠+石柱がもともと三条大橋のどの部位を構成していたか、うっすら推定もできそうな気配も漂います。

ちなみに京都のまちには、移築された橋擬宝珠をたまに見かけます。たとえば、五条大橋の擬宝珠。五条大橋も三条大橋と同じく増田長盛を奉行として豊臣秀吉が架橋したそうですが、擬宝珠が千本えんま堂(京都市北区)の駐車場前にぽつんと置かれています。

旧五条大橋擬宝珠、千本えんま堂
■ 五条大橋の擬宝珠(千本えんま堂前)
旧五条大橋擬宝珠、千本えんま堂
■ 文禄3年(1594)の銘文。
紹介した三条大橋擬宝珠に比べると、同じような移築物件とはいえあまり大事にされている様子はないですが、それだけにレアな印象を受けたりもします。おまけでのご紹介ですがこちらも注目ということで。

■ 今回の記事でご案内した三条大橋擬宝珠をマップで。


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