2012年5月12日土曜日

【まいまい京都】 “軍都深草”を歩きます
~戦争のなかの京都を訪ねて~



ご無沙汰しております。
ブログ更新が久々となってしまいました。これから気合を入れなおして、この愛おしきMYブログの更新を継続していきたいと心あらたにお誓いする所存です。

さて僕は、まいまい京都というまち歩きグループにてガイドをさせていただいておりまして、このたび来る5/20(日)にまたコースガイドを予定しています。いろんな性格のコースを担当するなかで、今回は“軍都深草”をテーマにしたコースを企画中です。昨年にも開催したコースですが、さいわい大変ご好評いただいたため今シーズンも開催となりました。誠にありがたいことです。

まいまい京都 / 京都の住民がガイドする、京都のまち歩きイベント

【イベント予定一覧】詳細・参加予約は、各タイトルをクリック 同日開催の午前と午後のコースは、続けて参加しやすい場所に設定しています(一部を除く)。 ...


今回のコーステーマ“軍都深草”を企画するにあたっては、ある一冊の本から大きな刺激と影響をうけました。『戦争のなかの京都』(岩波ジュニア新書)という本です。

戦争のなかの京都

京都は太平洋戦争のとき,被害を受けなかったのか? アメリカは,古都ゆえに空襲もしなかったのか? そんなことはない,米軍による空襲はしっかりおこなわれ,死者を何十人と出しているのだ.また,西陣織などの地 ...
■ 本の目次

1 戦争と京都
2 供出があった
3 建物疎開がおこなわれた
4 寺社と戦争
5 空襲があった
6 戦後の暮らし
7 街並みの再建

戦争というものと不可分だった近代日本の歴史。そして京都も同様に、戦争とは無縁ではまったくありませんでした。戦争を生産し戦争を消費したまちとして、近代の京都は形作られていったのです。その経緯について、この本は具体的かつ詳細に書き記しています。

  • なぜ五条通や堀川通はあんなに道幅が広いの?
  • 昔は“堀川京極”って大きな商店街があったらしい?
  • 京都に空襲があったってホント?

などなど、京都に暮らしているとなにげなく浮かぶ疑問について、数々のヒントをこの本は与えてくれます。近代京都もやはり、戦争と不可分の歴史をたどってきたんですね。そしてこの本は近代京都の歴史を縦糸にしつつ同時に、著者である中西先生の“家族史”を横糸にしながら物語が編み込まれています。まちの歴史とは同時に、個人や家族の歴史でもあった。そんな当たり前だけど大切なことを改めて思い起こさせてくれる一冊です。

ぜひぜひお手にとって読んでみてください。
まち歩きの視点が豊かになる一冊です。

僕はとにかくこの本を隙あらばあちこちでご紹介していまして、それくらい間違いなくおすすめの一冊なのです。あまたある京都関連本のなかでも出色の内容ではないでしょうか。

そこで“軍都深草”です。

京都には伏見周辺、なかんずく深草~藤森に戦前まで軍事施設が集中していました。師団司令部、練兵場、軍病院などが特定の地域に集中する、まさに“軍都”と呼べるようなまちづくりが深草~藤森で進んでいました。京都市内でも独特の歴史的経緯がある地域が深草周辺なのです。

今回のまいまい京都まち歩きでは、そんな“軍都深草”をキーワードにしつつ近代京都を体感できたらいいなと考えています。昨年11月に開催した、軍都深草まち歩きの初回コースをバージョンアップしながら企画中です。

■ 昨年のコースマップ。

コースマップをご覧になるとお分かりのように、本当に深草周辺には多くの軍事施設が集中していますね。京阪本線の線路と鴨川運河を挟むようにして集まっています。やはり兵士や物資の輸送を考えての施設配置でしょうか。あたかも軍隊の城下町といった印象です。

先日、コースの下見で深草周辺を歩いてきたので、この機会にちょっとご紹介しましょう。

■ 師団街道と第一軍道。
京阪深草駅を出ると、龍谷大学前に特徴的な交通標識を目にします。「師団街道」と「第一軍道」の標識です。京都に暮らしていると、「師団街道」の名をなにげなく耳にしたり口にしたりしますね。道路の名称は、“軍都深草”の中心である陸軍第16師団があった関係です。そして「第一軍道」とは、伏見街道(本町通、直違橋通)と戦前にあった「深草練兵場」「陸軍兵器廠京都支廠」を結ぶ軍用道路でした。明治41年(1908年)に第16師団が深草に設置された際、工兵第16大隊の設計で敷設されました。

■ 第一軍道。結構な坂道です。

そして師団街道を龍谷大学前から東に折れると、「第一軍道」の坂道が続いています。このあたりの第一軍道は結構な坂道で、かなりの高低差ですね。なぜかといえば……。

■ 京阪本線が第一軍道(西砂川橋)の下に。

京阪本線が第一軍道の下を走る立体交差(西砂川橋)のためなんですね。線路を第一軍道の下にくぐらせるために坂道が生まれたのでした。まちなかの高低差には、やはりちゃんとした理由があるんですねえ。

ちなみに線路が踏切でなく立体交差となった理由は、「兵士の行軍に妨げとなるため、線路踏切が軍道にあってはならない」と陸軍から京阪電鉄にお達しが下ったからでした。敷設された明治41年当時、立体交差は珍しいもので周辺住民の目を引いたそうです。

そして軍道と線路の立体交差工事に、京阪電鉄は「7,000円」の支出を強いられました。工事当時の京阪電鉄の資本金が「7,000万円 700万円」だったそうですから、相当の金額支出です。おそらく京阪にしてみれば、ある意味で“プロジェクトX”的な工事だったんじゃないかと。当時のこんな経緯を頭に置くと、なにげない線路風景もまた違った景色に見えてきませんか?

またよく見ると、第一軍道の道路脇には、石柱が点々と残っています。なんだか寺社の参道みたいな石柱の列です。

■ 軍道脇に残る石柱の列。
じつはこの石柱の列も軍道に関連した設備で、かつては石柱の間が鉄鎖でつながれた豪華な石柵だったらしいです。今でも第一軍道と第二軍道(後ほど出てきます)の脇にかろうじて残っています。ほうっておくと明日にでもなくなってしまいそうな石柱たちですが、これもたしかに“軍都深草”の遺構なんですね。

第一軍道は京阪線路を越えると、鴨川運河をまたぎます。鴨川運河は日清戦争が勃発した明治27年(1894年)に完成した琵琶湖疏水の支線のような水路で、京都と伏見を結ぶ重要な輸送路でした。琵琶湖疏水と淀川を直結して、大型の生活物資輸送に役立てられたそうです。

■ 鴨川運河。
この鴨川運河には多くの橋が架かっているのですが、橋の架けられた年代を見てみると大正末~昭和初年に集中しているようです。そして橋自体も、コンクリート製で中央に向かって山の字のような形となるスタイルで統一されていて、みな同じような形をしています。おもしろいのは、各橋には中央の橋脚上に同じマーク「六芒星」が貼り付けられていること。

■ 橋のマーク(六芒星)。
はじめこの六芒星マークはなんだろう?と思ったのですが、どうやら近代京都の水道行政に関係したマーク(京都市水道局の旧章)だったみたいです。一説には、漢字の「水」の字体を図像化したといわれるそうで。ただ六芒星マークの由来については出典が定かでないので、詳しくご存知のかた教えてください。鴨川運河沿いの橋のほかには、琵琶湖第一疎水のレンガ建物(蹴上)や京都市内の古いマンホールにこの六芒星マークを確認できます。なかなか不思議なマークですね。

鴨川運河を南へ進むと、「師団橋」が現れます。かつて、「第16師団司令部」と「深草練兵場」を結んだ重要な道路である「第二軍道」に架かる橋です。

■ 師団橋。
この橋だけは、中央橋脚の上にあるマークが六芒星ではなく「五芒星」となっています。かつて、日本陸軍のマークが五芒星だったゆえんです。

■ 師団橋の五芒星マーク(見づらくてすみません)。
他の橋の六芒星マークが平板なつくりなのに比べて、師団橋の五芒星マークは稜線もあって明らかに異彩を放っています。師団橋が、“軍都深草”の中枢である「師団司令部」に至る道筋だった関係でしょうか。

師団橋をはじめ、鴨川運河に架かる橋はとても特徴的なのでぜひ現地で確認してみてください。個人的には、「鴨川運河の橋群」として世界遺産に一括指定して欲しいぐらい。とてもユニークです。

また、師団橋周辺の第二軍道にも第一軍道と同じく、かつて鉄鎖でつながれていた石柵が残っていました。

■ 第二軍道脇の石柵のなごり。
第二軍道と京阪線路の立体交差も、このあたりは大きな高低差です。京阪電鉄の労苦がしのばれますねえ。さらに第二軍道脇の石柱のなかに、刻字が残るものが一本だけ立っています。

■ 「十六大隊」の刻字
だいぶ損傷が進んでいる石柱ですが、かろうじて「十六大隊」の文字を判読できます。軍道が工兵第16大隊によって敷設された証ですね。損傷の激しさは第二軍道が車の交通量多い道なので、なんどか事故にあってしまったからでしょうか。これからも大事に残しておきたい石柱です。

また師団橋を東に越えてすぐに小さな溝が流れているのですが、この溝がなんと「二級河川」なんです。小さな溝とはいえ、この周辺が陸軍省の管轄だった名残です。もしかして日本一ちいさな二級河川じゃなかろうか。いや根拠ないですけどね。ありふれた景色がぐっと色彩を増す瞬間です。

■ 二級河川の溝。

そして師団橋を東に越えて、伏見街道(直違橋通)に出て南に向かうとすぐに、「第16師団司令部」が今も威容を誇っています。これがなかなか圧倒される風景なのです。

■ 第16師団司令部(現聖母学院本館)
いやーすごい建築!
師団司令部が、これほど良好に残っている建築も珍しいのではないでしょうか。今は聖母学院の本館として余生を過ごしています。近年、修築が終わってとてもきれいに化粧直しされました。この師団司令部は聖母学院に事前に申し込むと見学可能なので、5/20当日のまち歩きにはぜひ立ち寄りたいと思っています。楽しみですね。

学校法人聖母女学院

聖母学院本館は、京都でも屈指の歴史ある建造物です。外観は古典様式の意匠でまとめられており、室内の装飾は簡素ながらも、天井の真飾りや各部屋で異なる暖炉の装飾、階段の意匠など、随所にさまざまな趣向が凝らさ ...

実のところ、陸軍第16師団は司令部建築の華麗さとは裏腹に、近代日本の戦争の歴史のなかで過酷な経緯に触れてきました。昭和11年(1937年)の南京攻略戦(いわゆる「南京事件」)の主力としてまさに当事者でしたし、昭和19年(1944年)に「レイテ島の戦い」では、第16師団から参戦した1万8,608人の兵士のうち生存者はたったの「620人」でした(そして師団長の牧野四郎中将は自決しています)。さらに、歴代の師団長のなかには、かの石原莞爾の名もあったりします。

ちなみに石原莞爾が師団長だった当時、ソビエト連邦との決戦を想定した石原の意向で、夏場の深草練兵場にて外套を分厚く着込んで訓練を行ったそうです。夏の京都の蒸し暑さを体験している方でしたら、その無茶というか無謀を容易に感じられるかもしれません。石原莞爾はやはりちょっと変わった方だったみたいですね。

また師団司令部の正門(聖母学院表門)の脇には、「陸軍」の名を刻んだ境界杭がひっそりと佇んでいます。これも見逃せません。

■ 「陸軍」と刻まれた境界杭

旧師団司令部を出て、伏見街道を南へ進むと深草小学校の前に出ます。小学校の塀の前にこちらもひっそりと記念碑が立っていました。

■ 「紀元二千六百年」記念碑
「紀元二千六百年」の記念碑です。「紀元二千六百年」とは、昭和15年(1940年)が神武天皇即位から2600年目と設定されて、盛大な国家事業として全国各地(海外植民地を含む)で開催された一大行事のことです。ここ深草の地でも同様に、記念行事が開催されたのでしょうね。深草小学校という地域コミュニティの拠点を会場として、歌舞音曲を交えた行事が催されたのでしょうか。



深草の人たちが近郷近在から集まって、自分たちの小学校の前で盛大に行事を営んだのでしょう。たしかな証しが今も記念碑として残っていました。紀元二千六百年記念碑は深草以外にも、全国各地のあちこちに今も残っているのでご興味のある方はぜひお調べください。

深草小学校を通り過ぎて、名神高速道路の高架を越えるといよいよ“軍都深草”のアイコンが瞳に飛び込んできます。

■ ご存じ「軍人湯」
京都が誇る名物銭湯「軍人湯」です。
なかなかインパクトあるお名前の銭湯じゃありませんか。まさに“軍都深草”ならではの銭湯名です。かつては第16師団の軍人さんたちが汗を流したのでしょう。創業は100年を超えるそうで、今もなお現役稼働中です。

■ 軍人湯。きれいに改装されています。
■ 駐車場も完備。
実はまだこちらの銭湯で入浴したことはないのですが、中はどうなっているのでしょうねえ。たとえば下駄箱なんかは軍靴を入れるためちょっと変わった形をしているとか、そんな趣向はあったのでしょうか。いずれ機会を見つけてぜひおじゃましたい。

軍人湯を過ぎると、「第三軍道」です。「野砲兵第22連隊」(現藤森中学校周辺)と、陸軍病院(現京都医療センター)から大岩街道を抜けて山科を結ぶ重要道路でした。京都医療センターに通った方にはなじみの道路かもしれません。

■ 第三軍道。
このあたりから京阪藤森駅まですぐ。いったんここでゴールです。
今回ご紹介したスポットのほかにも、戦争にまつわる数々の名残が深草~藤森にはひしめいています。また深草から藤森を今回南下する伏見街道(直違橋通)は、近世に京都と伏見を結ぶ幹線道路として整備された関係で、いまも街道筋ならではの風情と活気で満ちています。こちらも見どころですよ。

■ 伏見街道のまちなみ。
■ みんな大好き道標も。
5/20(日)のまち歩きでは、深草~藤森駅間の距離をじっくりとみなさんと探検できたらと思っています。今もなおしっかり残る“軍都深草”をぜひ体感してくださいね。楽しみにお待ちしています!

1 件のコメント:

  1. 深草小の横にある石柱は単なる石碑ではなく「国旗掲揚台」です。上下2箇所に空いているのがボルト穴、これで掲揚柱を固定していました。当時、この掲揚台前は重要な場所で、防空演習等の集合場所や出征兵士を送り出す場として使われたそうです。

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